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                             まほろば歴史講座2015

 

2015年11月9日 まほろば歴史講座 「陰謀と政争の古代史」 第5回「橘奈良麻呂」

 第5回は橘奈良麻呂。あまり聞きなれない名前だが橘諸兄の子。聖武天皇の皇后である光明子を産んだ県犬飼橘宿禰美千代の父違いの子が橘諸兄ですから光明皇后の甥にあたる。(光明皇后の父は藤原不比等)孝謙天皇時代に大伴古麻呂、佐伯全成を誘い藤原仲麻呂(奈良麻呂のハトコ)を滅ぼして天皇の廃立を企てたが露見して未遂に終わった。(橘奈良麻呂の変) 大伴古麻呂は752年に遣唐副使として入唐し、朝賀の席で新羅が日本より上位にあるのをとがめて
日本の席順を上位にしたことや鑑真和上を遣唐正使が反対するのを振り切って自分が乗る船に同乗させて日本に連れて
来たことで有名な人物。大伴旅人(叔父)と大伴家持(いとこ)光明皇后の甥であり孝謙天皇のいとこである仲麻呂
の専横が原因である。その仲麻呂(後に恵美押勝)は思い通りに淳仁天皇を即位させ太政大臣まで上り詰めたが、孝謙
上皇の寵愛が道鏡に移り没落していく中で「藤原仲麻呂の乱」を起こして敗れ滅んだ。
 正に奈良時代は華やかな天平文化の裏で陰謀や政変に明け暮れた時代であるというのを実感した学びでした。

おまけ:橘奈良麻呂の死後に生まれた息子・清友の娘・嘉智子が嵯峨天皇の妃となって後の仁明天皇を生んだことから
に奈良麻呂は、政敵・仲麻呂が後に謀反を起こして失うこととなった正一位太政大臣位を贈られている。

2015年10月19日 まほろば歴史講座 「陰謀と政争の古代史」 第4回「大津皇子」

 第4回は大津皇子。黒岩重五の「天翔かける白日 小説大津皇子」を昨年読んだところなどで、その復習という感で
学びました。小説はあくまで虚構ですがその時代の雰囲気や登場人物が良くわかるのでしっかり読むことと講師の
小北先生が言われて読んでいたので興味深く学ぶことができました。
天武天皇と天智天皇の娘である太田皇女の子。姉は伊勢神宮斎王の大伯皇女。日本書紀に「…幼年にして学を好み、
博覧にしてよく文を属す。壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ…」とあるように文武両道に優れて
いて、かつ人間的にも魅力があり抜群の人物と認められていた。ところが母の太田皇女が早くに亡くなり、その姉、
鵜野讃良(後の持統天皇)の子、草壁皇子が「吉野の盟約」を踏まえて皇太子に押されてしまう。天武天皇が亡くなると持統天皇が即位し大きすぎるライバルに謀反の疑いをかけ、自殺に追い込んでしまいます。辞世の句は
「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」(万葉集巻3-416 万葉きっての哀歌といわれる。)
そのあと姉の大伯皇女が斎王の任を解かれて帰郷した折に読んだ和歌も有名
「うつそみの人にあるわれや明日よりは 二上山を弟背(いろせ)とわが見む」(万葉集巻2-165)
 二上山山頂には大津皇子の陵墓があるとのこと。二上山は一度は登ってみたい山である。

2015年9月18日 まほろば歴史講座校外学習 宇陀を巡る





今日は絶好の校外学習日和。奈良ロイヤルホテルさんの計らいで大型バスを貸し切り宇陀へ。途中忍坂の石位寺で
白鳳時代の制作で額田王ゆかりの石仏という「伝薬師三尊石仏」を拝観(写真撮影禁止でした。残念!)。石造りなの
に優雅さを感じさせる薬師三尊に魅了されました。その後宇陀松山伝統的建造物保存地区へ。ここは昨年二名歩こう会で訪れ知っているつもりでしたが、小北会長の説明でいくつもの新しい発見をすることができました。
そしてホテル特製のこだわりのお弁当。茶飯をはじめ奈良の野菜のみで作られたお弁当は本当においしかったです。
次は阿紀神社を拝観。垂仁天皇の皇女倭姫命が天照大神を祀ったと言われる神社は元伊勢と呼ばれ神明造りが美しい
神社でした。その後ここも2回目の宇陀水分神社へ。今回はなんと瑞垣内での拝観が許され国宝をまじかに見学。
感激・感謝いっぱいの拝観でした。最後は八咫鳥(やたがらす)神社、そうですサッカーの守護神八咫鳥を祀った
神社です。でもサッカー選手は熊野詣はするもののここには誰も来ないとか。勝てないわけですよね!モニュメント
も存在感を示したのですが・・・奈良県民としてはちょっと残念な気がしました。
今日は小北会長の素晴らしい解説と奈良ロイヤルホテルの好意に大満足の校外学習でした。感謝!感謝!です

2015年8月10日 まほろば歴史講座 「陰謀と政争の古代史」 第2回「山背大兄王」

 上宮王家(聖徳太子一族)滅亡の残酷な歴史を学びました。山背大兄王は聖徳太子と刀自古郎女(蘇我馬子の娘)
の子供。聖徳太子を描いた唐本御影で聖徳太子の右におられるのが山背大兄王と言われる。推古天皇の病死後、有力な後継者といわれた山背大兄王はまだ若いということで田村皇子(舒明天皇)が天皇に。それでも山背大兄王の存在感は大きかったため、蘇我入鹿は思い通りに操れる、また自分の孫が天皇になれるということで巨勢徳多などに山背大兄王を襲撃させた。一時は生駒山に脱出したものの山背大兄王は斑鳩寺にもどり一族ことごとく自害したという。まさに
蘇我氏の陰謀そのもの。山背大兄王の墓所は法輪寺近くの富郷陵墓と言われている(宮内庁管理)。2014年に関西さるく会で歩いた時にはあまり感慨もなかったのだが、歴史講座で学んだ後だとまた違った想いで見ることができたように思う。

2015年6月13日 まほろば歴史講座 「陰謀と政争の古代史」 第1回「崇峻天皇」

 今年に入って初めての待ちに待ったまほろば歴史講座です。講師の小北先生のご都合で半年遅れです。
今回は「陰謀と政争の古代史」ということで12月まで6回、プラス校外学習1回の計7回の講座です。

第1回は「崇峻天皇」。唯一臣下暗殺された天皇です。欽明天皇の子で敏達・用明・推古天皇の異母弟、そしてあの
聖徳太子のおじさんにあたります。消去法で、かつ蘇我氏の血を引くということで天皇になったのですが、曽我馬子
を殺そうとしたため弑逆させられます。(献上されたイノシシを天皇が指さし「このイノシシの首を斬るように憎いと
思っている者を斬りたい」とひとりごとを言ったのを大伴小手古妃が馬子に密告)。そして「もがり」もなく、その日
のうちに葬られてしまいます。(崩御したその日に葬られ、陵地・陵戸もないというのは崇峻天皇だけ)
もともと馬子は敏達天皇の妃である炊屋姫(後の推古天皇)を天皇にしたかったのも弑逆の一因だとか。
また弑逆した東漢直駒(やまとあやのあたいこま)は実は崇峻天皇の嬪の河上娘(馬子の娘)を好きだったとか。
弑逆後、河上娘との密通が露見し馬子によって処刑された。なんとも複雑な関係です。
また崇峻天皇の皇子である「蜂子皇子」は天皇が殺された直後、東北へ逃れたあと出家し修験道で有名な「出羽三山」
を開き、「能除太子」と呼ばれるようになったそうです。墳墓は出羽三山神社の境内にあり、宮内庁の管理。
日本史には書いていない歴史が聴けるのがまほろば歴史講座の醍醐味。面白かったです!