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新家族と趣味

まほろば歴史講座

2014年12月15日(月) 天武天皇系から天地天皇系へ (本年度最終回)

673年、大海人皇子が天智天皇直系の大友皇子(弘文天皇)を滅ぼして天皇となって、約120年間天武系の時代
が続くことになった。その間、藤原京・平城京の遷都や遣唐使派遣、大仏建立などが歴史に残されることとなる。
しかし天皇に限って学んでみるとクーデターあり、陰謀あり、まさに権力掌握の繰り返しが続いた120年間であった。
大津皇子の変、長屋王の変、藤原仲麻呂の乱や皇位継承のルールさえも変えて行く陰謀。その裏には女性と藤原氏
の姿が常に垣間見れる。もともと古代の皇位継承は兄弟継承が普通だったそうである。権力基盤が確立されていないと天皇家以外から乗っ取られることにもなりかねないので力を持った兄弟が継承していくことで皇統を守ったと言われている。そのルールを天武天皇は直系男子に継承しようとしたわけだが、結果的に継承者が幼いため、持統天皇、元明
天皇・元正天皇などリリーフの役割になった女帝誕生に繋がる。そして最後は皇后の子(直系男子)が早世したため、
異母弟がいたにもかかわらず内親王(孝謙天皇=称徳天皇)に皇位を継がせることとなった。しかし生涯独身で子供
を持たなかったので天武系は途切れてしまった。ここでも陰謀がある。天智天皇系の光仁天皇を即位させるのだが、
皇后は聖武天皇の娘であった井上内親王であり、当然子供は天武天皇系となるための策略であった。結果的には井上
内親王(皇后)が不慮がありそこで天武系は途切れてしまうのである。

ところで講師の方が最後にいわく、実は天武天皇は新羅系の人物だったのではないかという。白村江の戦いで唐・
新羅連合軍に大敗した天智天皇朝廷に、新羅は有力人物を送り込んだのではないか。それを物語るに京都の泉涌寺に
は歴代天皇の位牌が祀られているそうだが天武系天皇の位牌だけはないとのこと。また大海人皇子時代のことはよく
わかっていないとのこと。今上天皇が平城京遷都1300年で来奈された時に「百済からの渡来人の血を引く高野新笠
(たかのにいがさ)と光仁天皇の子、桓武天皇が我が祖」と言われたとか。

日本史では学ばなかった古代から奈良時代までの歴史を詳しく、また関係したところを実際に訪ねたりして学ぶこと
ができたことに感謝・感謝の一年間でした。

2014年11月17日(月) 鑑真東征と天平の甍

唐招提寺で知られる鑑真。742年、遣唐使の栄叡・普照からの要請で揚州の大明寺の住職だった鑑真は来日を決意。
その後2回の遭難や官憲からの渡航禁止を経て754年、6回目の渡航で日本に到着。孝謙天皇の勅命により戒壇設立・
受戒を一任され、東大寺に戒壇を設けるとともに、聖武上皇を初め、堕落した僧尼400名に戒を授けた。(当時税金
逃れや賦役逃れで僧になっていた人が多かったため僧侶が堕落していた)
以前韓流ドラマ海神(ヘシン)の舞台となった揚州に鑑真はいた!そしてドラマでは日本を貿易の相手国として
扱っていたが実は新羅は日本に朝貢していた。遣唐使のエピソードに唐の年賀式で席次1位は新羅、2位は日本だった
のを新羅は日本に朝貢している国だからと席次を変えさせてしまったとか。当時の外交団(遣唐使)の誇りがすごく
うれしく思えました。
ところで僧・僧尼には在家と出家があり、出家者は見習出家者(沙弥・沙弥尼)=十戒(例:肉魚を食べない、結婚
しないなど)、修行僧(比丘・比丘尼)=具足戒(男:250戒、女:350戒)の戒を授けられた。ただこの戒律は
平安時代から徐々に無くなり、現在国内では皆無だそうです。
受戒の仕組みを作り、実際に受戒した鑑真は引退した後、現在の唐招提寺を建立したが、私寺だったため寄付(土地:
国から下賜、建物:寄進)により出来上がったと言われる。ちなみに国宝の講堂は平城京の事務棟だった東朝集殿を
移築改修したもの。
唐から後進国の日本に命をかけて渡航した鑑真の思い、そしてそのことを実現させた遣唐使。今の日中問題も先人の
思いを互いに深慮し彼らに負けない外交を行うことも大切だと痛感した。
井上靖の「天平の甍」は鑑真をモデルとした小説とのこと(知らなかった)。早速読んでみたいと思いました。

2014年10月22日(月) 遣唐使がもたらしたもの

607年・遣隋使・小野妹子・「日出ずるところの天使・・」は日本史で習いそれなりに覚えているが、遣唐使は
言葉のみの記憶でした。今回遣唐使について学び奈良そのものの歴史を肌で感じ取ることができました。
当時日本は中国と対等という外交方針で遣唐使を派遣していましたが、中国はあくまで皇帝に対する臣下の朝貢
という認識を持っていました。(当たり前?でも心意気が嬉しい!)そのような中で歴代の遣唐使は下賜された
物品をお金に変えてたくさんの書籍を買い込んで日本に持ち帰ったとのこと。奈良時代の人たちが誇りに思えます。
702年の粟田真人は和同開珎や律令制度とともに、平城京に遷都するための貴重な資料を持ち帰ったことを知りま
した。驚くことに唐は長安城の設計図を彼に渡したことです。(城郭の設計図は超極秘事項)
716年のミスター遣唐使といわれる吉備真備は阿倍仲麻呂・玄ムとともに唐にわたり、経書・史書・天文学・音楽
等を学びまた多くの書籍を19年後の735年に持ちかえったそうです。その後聖武天皇のブレーンとして活躍。
まさに遣唐使は奈良時代、ひいては日本の国を支え、発展させたということが充分理解できました。

2014年10月17日(金) 校外学習 橿原市を訪ねる


藤原京は明日香ではなく橿原市にあった!当たり前のことですが考えたことがありませんでした。歴史遺産の宝庫、
橿原市を訪ねました。まず藤原京の全貌をジオラマで見学。その後藤原宮跡を現地見学・講習。現場に立って見ると
わずか16年間の都がさらにむなしく感じられる。仏教伝来ゆかりの難波池、推古天皇の豊浦宮跡といわれる向原寺、
を経て甘樫の丘でホテル謹製の豪華なお弁当。食後は甘樫の丘から藤原京跡や大和三山、二上山、明日香を遠望。
天武・持統天皇の思いに少しだけ浸りました。あとは久米仙人伝説で有名な久米寺や江戸時代の環濠集落今井町を
訪問・散策。気持ち良い秋空の下、現地で講義を受けることで歴史を肌で実感できた一日でした。

2014年9月16日(火) 聖武天皇の専制

鎮護国家の思いで全国に国分寺や国分尼寺、そして東大寺を建立したことで有名な聖武天皇について学びました。
文武天皇の第一皇子である聖武天皇は14歳で皇太子になるのですが、病弱であったせいかその後伯母の元正天皇の
中継の後に724年24歳で天皇に。皇后は権力者藤原不比等の娘の光明子。それまでは皇族しか皇后になれなか
ったのですが、反対していた長屋王の死後、非皇族として初めて皇后になります。
政治的にはイエスマンの橘諸兄をトップとして、唐から帰国した吉備真備や玄ムを取りたてるなど専制を行い、また」光明皇后との間にできた嫡子(基王)が早世したため、他に男子(安積親王)がいるにもかかわらず、阿倍内親王
(孝謙・称徳天皇)を女性として初めての皇太子に立てた。一方藤原広嗣の乱をきっかけとして伊勢国から不破関、
琵琶湖東岸を行幸のあと740年には恭仁京を造営。745年には再び平城京を遷都するとともに仏教を深く信じていた光明皇后とともに東大寺を建立。749年に孝謙天皇に譲位。
聖武天皇は56歳、光明皇后は60歳で崩御。二人は佐保山南陵・東陵に埋葬されている。
正倉院は聖武天皇、光明皇后ゆかりの品を納めていることで有名。
聖武天皇をこれほど身近に感じたのはやはり奈良に在住しているから。この秋はゆかりの地を散策してみたいと
つくづく思った。

2014年7月22日(火) 平城京遷都の意図するもの

平城京遷都は日本書紀にたったの一行しか記載されていなかったそうです。なんか理由があったのでしょうか。そこには藤原鎌足の二男だった不比等の画策があったのです。
天武天皇が意図し持統天皇が作り上げた藤原京は16年という短い期間で平城京に遷都されてしまいます。
藤原京は王宮が条坊の真ん中にあり、君子南面するという中国の思想からすると南に偏り過ぎていた、
また川が南から北へ向かって大和川に流れるため王宮に汚物が流れ込み不潔だった、そして唐の長安とは比較にならないほど貧弱だったそうです。
そのため時の権力者、藤原不比等が中心となって奈良盆地の北に@構成・構造上の欠陥を解決、A世界基準(=長安)の実現、B天皇の権威を内外に顕示、C中央集権国家にふさわしい首都を意図して平城京が作られたわけですが、実は藤原不比等は自分の孫(=聖武天皇)にふさわしい都を作りたかったと言われています。その証拠に不比等の邸宅は皇太子(=聖武天皇)の東宮殿の横にあったそうです。


2014年6月16日(月) 持統天皇の画策

「春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山」 百人一首で何度も口にした和歌。この歌からは実力天皇としての持統天皇は全く見えてこない。
天智天皇の娘として生を受け、叔父の天武天皇の妃となり、天武天皇崩御の後は天皇に即位し、飛鳥清御原令の制定と藤原京の造営を成し遂げた飾り物の天皇ではない。そして子供、孫を天皇につけようとし画策した執念の女性とは誰も思えない。
また天武天皇と合葬されたロマンの人でもあった。(天皇で合葬されたのはこの一例のみ)おもしろいのは天武天皇は土葬で持統天皇は火葬だとのこと。どこまでものめり込みそうになる天皇である。


2014年4月25日(金) 校外学習 中将姫ゆかりの寺を巡る




 藤原不比等の孫の藤原豊成の子、中将姫(本名不明)は5歳の時母を失い継母に育てられる。
 継母からのいじめや殺害の危機を乗り越え、16歳の時に中将姫の願いにより当麻寺に入ることを許され、17歳で
 「中将法如」として仏門に入る。蓮糸を用いて一夜で織り上げたといわれる。
 一丈五尺の曼荼羅の話しは有名。29歳の時に生身の阿弥陀如来と二十五菩薩が表れて中将姫を生きながら西方浄土
 へ迎えた。
 また中将姫の苦難の物語は世阿弥元清による謡曲や近松門左衛門による哀話で世間に広がるならまちは元興寺の
 寺町でそこに藤原豊成の邸宅があった。誕生寺・特融寺・高林寺はそれぞれゆかりの寺。
 当麻寺は一度行ったことがあるが、中将姫という切り口でならまちと合わせて訪ねてみるとまた違う思いを持つこと
 ができた。歴史や名所旧跡に多面的に接してみると違う世界が広がってくるということことを実感できた。

2014年4月21日(月) 乙巳の変と大化改新

 645年に中大兄皇子と中臣鎌足が中心となって蘇我入鹿を殺害して政治改革を行ったことは大化の改新とあまりにも
 有名だが殺害そのものは乙巳の変ということを近頃知りました。
 また談山神社へも何回か行きましたがそこで二人がクーデターを起こす談合を行ったことから談山神社ということも
 また近頃知ったわけです。歴史を受験勉強として習い覚えてきたことから脱却して今住んでいるこの地の歴史と
 とらえるともっと身近な歴史に触れることができると痛感しました

2014年3月17日(月) 仏教伝来と興隆

 欽明天皇時代の538年、百済より公伝。百済聖明王から釈迦仏の金銅像と経綸他が贈られた。それ以前にも九州等で
 仏教の伝来が確認されているが、国家としては538年(他説あり)とされる。
 伝来だと自然的であり時期不詳だが、公伝ということで伝来の年が明確になっていることを知りました。
 また当時神国としての立場から賛否両論あり、結果金銅像と経綸は蘇我稲目に下げ与えられ自宅清めて日本最初の
 寺を建立。稲目の家は現在の明日香にある向原寺にあったとされる。
 蘇我氏はこのように国の変革・発展に大きく貢献したという面を再認識しました。

2014年3月3日(月) 奈良の歴史(古代)

 奈良には遺跡が12958カ所、うち国史跡は116か所、特別史跡は10ヶ所、また古墳は8003基で兵庫県について2番目
 である。まさに歴史の宝庫である 。
 この奈良でしっかり古代史に触れられるということはまさに奈良に在住している者の喜びであることを感謝したい。


2014年2月17日(月) 古墳の出現と衰退